「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -
【11】 美は第二の心の世界のもの
(男性)先生は「快、不快」についてどのように思われますか。
(岡)快、不快は第一の心です。快、不快で判断しちゃいけない。
(男性)そうすると例えば絵なんか、芸術なんか・・・
(岡)まあ、言葉っていうのは非常に不便ですが、絵なんか快っていう言葉使わないですね。本当によい絵をみたら時間を超越する。それをどう云えばよいかわかりませんが、快じゃありません。時間を超越する。
(男性)しかしですね、例えば色の配合の場合、合う色と合わない色がありますね。ある色の配合について、ある人はよいと思うけれども、他の人はよいと思わないというように違ってくることがありますが、これは快、不快の感情によるのではないでしょうか。例えば絵なんか描いてあること自体、それだけでしょう。そこから何かが出て来るというのは、見る者によって様々に受ける感じが違うというのは、各自の快、不快の感情によるのではないのでしょうか。
(岡)絵の話をちょっとやめて、歌の話をしましょう。万葉の歌。
ともしびの明石大門に入らむ日や
榜()ぎ別れなむ家のあたり見ず
ともしびのって云うのは明石の枕言葉。大門というのは水門、つまり海峡です。海は淡路島と明石の間で狭くなってますね。
ともしびの明石大門に入らむ日や
これ人麿の歌ですが、人麿は西へ向かって行こうとしてる。
ともしびの明石大門に入らむ日や
榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
家は大和にあるんです。大和は遠いし、もう日は沈みかけてるし、それで見えない。家のあたり見ずは、家のあたり見えずですが、
ともしびの明石大門に入らむ日や
榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 柿本人麿
まあそれはそのままにしておく。それから、
熟田津()に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな
熟田津って港の名です。四国にあって、松山の近くらしい。今は陸になってると云う。ともかく熟田津って港の名です。熟田津にの「に」は、においてです。
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな(二回)
これは額田王()と云って女の人の歌です。で、まあこれが万葉の歌かと思って、そっとそのまま横へのけておく。
そして明治以後の歌は一体どんなふうだろうと思ってたんだけど、これは若山牧水の歌ですが、
冬の日のあはれ今日こそやすからめ
土をそめつつ朝照り来たる
いい歌ですね。いい歌ですが、万葉の歌と比べてみたら、詠む人がこちらにおって、詠まれるものが向こうにある。これを「自他対立」すると云うのです。自他対立することを著しく感じる。
冬の日のあはれ今日こそやすからめ
土をそめつつ朝照り来たる
万葉の歌をもう一度云ってみますと、
ともしびの明石大門に入らむ日や
榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
自他対立しない。
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな
自他対立しない。
じゃ明治以後のほかの歌どうだろうと思って、例えば斎藤茂吉、思い出してみる。
おのづから寂しくもあるかゆふぐれて
大いなる雲は谿にしづみぬ
これもまたはっきり自他対立する。じゃ石川啄木は、
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと握れば指のあひだより落つ
これも自他対立する。それじゃ会津八一、
あめつちにわれひとりいてたつごとき
そのさびしさをきみはほほえむ
救世観音を詠んだ歌。矢張り会津八一こちらにおって救世観音むこうにある。ことごとく自他対立する。明治以後の歌はことごとく自他対立する。まだいくらあげても皆そうです。万葉の歌は自他対立しない。こういう違いのあることに気がつく。
万葉の人は第二の心の世界で歌を詠んでます。明治以後の人は西洋の真似をして第一の心の世界で歌を詠んでるんです。で、真、善、美、妙すべて第二の心の世界にある。第一の心では駄目なんです。矢張り万葉でなければ。
じゃあもう一つ例あげましょうか。万葉以後にあって第二の心の世界に住んでる人の例は芭蕉です。芭蕉は第二の心の世界に住んでた。で、芭蕉の俳句、
春雨や蓬をのばす草の道(二回)
目の及ぶ限り万古の春雨が降っている。同じようでも蕪村の春雨の句を云ってみますと、
春雨やものがたりゆく蓑と笠(二回)
二筋か三筋春雨が降ってるだけです。なおよく見てみますと
春雨やものがたりゆく蓑と笠
と云うのは、自他対立する。
春雨や小()磯の小貝濡るるまで
これも春雨はほとんど降ってません。そしてよく見れば自他対立する。
第二の心の世界においてでなければ、真の美というものは無いのです。
(男性)と云うことは、自分がその中に入っているということですか。
(岡)入らなきゃわからない。第二の心の世界に入らなきゃ美はわかりません。自他対立するところには美は無い。そこを出るん!
(男性)出ると自他対立しなくなる訳でしょう。
(岡)そう。あなたがそこにおって、わたしここに居るでしょう。それではいけない。それじゃ美を論じる資格なし。
(男性)しかし、例えば歌にしてもね、もともと快い音とかね・・・
(岡)ねえ、わかりもせずにウジャウジャ云いなって云うんです、そこで・・・
(男性)いや、わからないから聞いているんです。
(岡)なんぼしても自他対立がわからん。わたしがここにおって、あなたがそこにおるんじゃありませんよ。
(男性)そうするとそこにおられて、ここにいるのは・・・
(岡)からだ、物質です。何とかしてあなたをわからしたいがなあと思うんだが、この辺でピュッと行った方がいいんじゃあるまいかと一寸思う。(笑)このねえ、日本人でありながらなあと思う。
あなたは第一の心の世界にはまり込んでしまってた。大体快、不快で判断せよって云うのはアメリカのデューイという教育学者が云ったんです。これは絶対やってならんこと!
ところがそれに従って日本の教育はなされてる。で、快、不快で判断せよというようなことを随分教えてる。快、不快で判断するのは動物がすること、人のすることじゃありません。
(男性)しかしそういう感情が有るっていうこと自体は・・・
(岡)感情というのは第一の心。離れたら無いんですよ!
自分で時間、空間の枠の中にはまって、さらに自他の別あるというところにはまり込んでる。そんなところで美を論じる資格が無いということを知るべきです。
徹底的に間違った教育受けたん!
デューイの云うことです、それは。デューイの教育学は野獣の教育学だと思う。
ある人がこの配合がいいと云い、他の人がこの配合がよくないと云う。それ、どちらか間違ってる、あるいは両方間違ってる。間違った方を直さなきゃいけない。めいめい自分がそう思うからそうだと主張したら、これはもう始末に負えんことになる。
(男性)そうすると美というのは一つだけということになるのですか。
(岡)主観は一つ。
(男性)そうすると、そういう主観を持つということ自体が・・・
(岡)純粋主観でなきゃいけない。
(男性)はあ、それはそうなんですけど。つまり、そう思うってことは・・・
(岡)何よりも自他対立がいけない!
あなた、どうしたってあなたがそこにおって、わたしここにおると思ってる。その心じゃ駄目です。
風が吹く。風が自分の心である。雨が降る。雨が自分の心である。そういう心にならなきゃ美はわからない。だから欧米人に美はわからんのです。美をつくることは出来る。だけど鑑賞は出来ない。第二の心でなきゃ出来んものだから。
(男性)わからないのに何故つくれるのですか。
(岡)わからないのに潜在意識でつくるんですな。だからつくることは出来る。道徳はうまくいかんらしい。が、学問、芸術はかなりつくってる。随分間違いも入ってますが、かなりつくってる。潜在意識的に働く、第二の心が地下水のように働くんです。その働き方、わたしにはわかりません。わたしは欧米人じゃないから。が、そうらしい。
あなたしかし、一体何を云いたいん!
快、不快で判断するって云いたいんですか。それとも、めいめい思うことがあるんだから、多数決でもとらなきゃいけないと思うんですか。
(男性)めいめい思うことがある訳ですからね、結局自分というものの考え方による以外仕方がないのではないですか。
(岡)その自分というのは小さな自分です。その小さな自分というものを離れなきゃ。あなた一体、芸術品で、これはいいなあと思ったもの、ありますか。
(男性)心からはちょっと有りません。
(岡)無いでしょう。芸術は感銘を与えるものです。だから感銘を受けたことが無いんだったら、一度も美に接したことは無い。目がふさがっている。
春雨や蓬をのばす草の道
実にいいなあと思いますよ!
あなたなんとも思わんでしょう。これは快、不快じゃない。目あきとめくらです。目はあかなきゃ駄目です。
自分がいけないと思うようになれんかなあ!
そこが間違ってるん。そこが間違ってるから一切が狂ってしまう。そういうのを小我って云うんです。
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