「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -
【12】 禅の実践とは
(男性)道元が修行のため船で中国へ渡りました時、その船へ日本の椎茸を買いに来た向こうの料理人云うんですか、禅院の食事の世話をする典座のお坊さんから、禅の道を教えてもらった時に・・・
(岡)教えてもらったんですか。
(男性)料理を世話するのもまた禅の道なりと、こう云われまして、のちに道元自身「いたるところの生活、それ自体禅なり」と云うようなことを云っておりますが、僕達が実際に生活する場合に、例えばここに坐って、岡先生や皆さんのお話を聞いている時も、自分の心さえ禅の道におけば禅を実践していることになると思うんですが、そういう実践の道と云いますか、その心構えが僕自身よくわからないのですが、その辺の入門法と云うようなものを教えて頂きたいのですけれども。
(岡)「仏道をなろうは自己をなろうなり。自己をなろうとは自己を忘るるなり。」そう云ってますがね。私というものを忘れたらよい。私がいけない!
(男性)第二の心、即禅の心ですか。
(岡)そうです。この姿を無と云う。また、この内容を空と云う。
(司会)いかがです、おわかりになりましたか。
(岡)いやあ、そんなに急にわかりゃしませんよ、ねえ!(笑)
(男性)わかるということと、何て云うんか、実際に生活するということは、なかなか難しいものが、ものすごく開きがあるような気がするんです。と云うのは、僕自身も・・・
(岡)いえー、禅の心において暮らすことが出来れば、よく暮らせるのですけどね。第一の心を離れたら何も無いと思いがちなん。本当はがんじがらめに縛られてるん。その自縄自縛を解くだけなんです。縛られてることを欲して人はそんなことを云うんです。錯覚ですね。人はそう錯覚するん。
(男性)僕自身、最近もう一度大学時代の数学の勉強をし直しているんですけれども、数学の勉強を通して禅の道を実践・・・
(岡)駄目だ! ありゃ西洋人のやったこと。(笑)数学を始めたのは東洋人ですけどね。西洋人にはとても始めらりゃしませんが、ギリシャ以後ずっと西洋人の手にある。あれは西洋のものですよ。
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