「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【5】 山崎弁栄上人
(男性)この間サンケイ新聞で先生のお話を読ませて頂いたんですが、山崎弁栄上人でございますか、あの方のことについて、もう少し詳しくお話しして頂きとうございます。
(岡)じゃ、山崎弁栄上人はどうして「自然は映像である」、そういう真理がおわかりになったか、こういう疑問が当然起こる。こういうお話があるんですね。大正九年に亡くなった方だからご事跡がよくわかっている。ある上人の信者が、自然科学に関する字引を差し上げた。この字引は、つまりどういうのかと云うと、自然科学に関する述語が一応網羅されている、その下にその意味が書いてある、そういう字引。大部なものだったということですが、それを差し上げると、その背の所を左手で持って、その反対の腹の所、頁のむき出しになっている所に右手の親指を当てて、ピーッと親指で頁を弾かれた。それでその人が「お上人、何をなすったのですか」とお聞きすると、「はい、これでみなわかりました」と云われた。それであまりに不思議に思って、お許しを得て、あちらの術語こちらの術語とお尋ねしてみると、みなすらすらと字引通りに答えられたと云うんです。
また、こういう話があります。渡辺信孝という人があって、お上人に帰依してお供していた。お上人のお供をして岐阜県の大垣の宿に泊っていると、上人は渡辺さんに、今に人が尋ねて来るから用意をしておけと云われる。その人は、向こうの松原の陰を馬が歩いている、その馬の後ろを歩いている。そう云われるのだけれど、障子が閉め切ってあるから、そこからは人は勿論、松原も見えない。しかししばらくするとその人が実際尋ねて来た。そういうんです。
その後、渡辺さんは上人のお供をして、しばらく東京のどこかの寺に滞在していた。ちょうどその頃、法華経の解釈をした本が出版されて、それが新聞に広告されていた。渡辺さんはそれを読んで、面白そうな本だから読みたいなあと思った。しかし弁栄上人は平生「暇があればお念仏申せ」と云って、本なんか読むことを喜ばれない。それで云い出しかねていた。そうすると上人が突然、「渡辺、法華経は読みたいか」そう云って二円下さった。それを持って早速本を買ったんですが、出版されてすぐだったので定価が割引されていてお釣りをもらった。渡辺さんはそれで鰻飯を食べて、まだ残ったから焼鳥を食べた。そして寺へ帰ってよく口をそそいで、隣の部屋から「ただ今帰りました」と申し上げると、「渡辺、鰻飯はうまかったか」。渡辺さん、どぎまぎして、「いえ、鰻飯はここ三年ほど食べておりません」そう云うと、「いや、そうじゃあるまい、焼鳥はうまかったか」、そう云われたというのです。
これはみな大円鏡智という智力の働き。大円鏡智は、現在、過去、未来は現在の一位に住し、その現在は一目でわかると云われている智力です。こんなふうに仏教の高僧には、凡人には想像もつかないような智力が働く。それで真理が直観的にわかるんです。
(男性)その弁栄上人のお描きになった観音像というのはどこにございますでしょうか。
(岡)観音の絵?
(男性)はい。
(岡)これは各地にばらまかれてて・・・
(男性)ああ、そうでございますか。どこへ行ったら見られるでしょうか。
(岡)わかりません。見たって写生なすったものかどうかわからんでしょう。
わたしの家に弁栄上人のお描きになった「出山の釈迦」の姿がありますが、これも見て描かれたものです。ただし釈迦が山から出る
― 出山()って云ってますが ― 山から出たということは、この地上に実際起こったことのあることです。地上に一度起こったことのあることは、たとえそれがどのような昔のことであろうと、それを見るには仏眼はいらない、天眼でわかる。で、あの絵は天眼でみて描いてられる訳ですから。
弁栄上人は実際仏を見られたと云いましたが、どういう仏かと云いますと、総ての第二の心は合一して一つになってますね。弁栄上人は光明主義という仏教の一宗をお建てになったんですが、光明主義では、総ての第二の心が合一して一つになっている。その合一心を阿弥陀如来、こう云うんですね。この仏をご覧になって、それをお描きになった。キリスト教で云ってる神というのもこの同じ神である、阿弥陀如来と同じ神である、弁栄上人はそう云ってられる。だからキリスト教も、最も根本の点においては正しいんですね。
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