okakiyoshi-800i.jpeg
2023.08.20up

岡潔講演録(31)


「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -

【14】 善と悪

 (男性)「善」「悪」ということについて、先生はどういうふうにお考えでしょうか。

 (岡)大勢の人にわかりやすいように善悪と云うんでしょう。善悪などと簡単に云えるもんじゃありませんね。善意と云ったら、善のことではありません。だけど、善悪と云えば、善と悪とは違うんですよ。みすみす悪いとわかっているのが悪です。これをしないというのは善かと云うと、善ではなくて、悪をしない、諸悪莫作(まくさ)と云う。善と云うのはどういうものかと云うと、そういう悪をしないというようなところを超越したもの。

 善を行のうのは第二の心が行のう。第二の心は無私ですね。だから自分が善行を行っているという自覚があっては決して真の善行ではない。仏教の禅ではここをやかましく教えてるんです。西洋人には全然このことがわからない!

 人を見れば人が懐かしいと思う、これが善の基礎です。だからこんな狭い島に長く一緒に住んでいながら、同胞が懐かしくないというような人は、何をしても真の善にはならん訳ですね。

 善の例をお話ししましょうか。白隠禅師が大悟して ― 白隠禅師、徳川時代の大禅師ですが ― 大悟して静岡県のある寺で住持をしてた。その町の豆腐屋の娘がいたずらをして子を産んだ。娘は(てて)親がこわかった。それで、父親は白隠禅師に帰依してるから、禅師の子だと云えばしかられないだろうと思って、そう云った。ところが父親にしてみれば、裏切られたと思ったものだから、なおさらかんかんに怒って、その赤ん坊を持って寺へ行って、それを黙って白隠禅師に押しつけた。

 そうすると白隠禅師も黙ってその赤ん坊を受け取って、乳をもらい歩いて育てた。応待流れるが如しですね。丁度冬であって、その日は朝から吹雪が吹き荒れていた。白隠禅師はだから赤ん坊を(ふところ)に入れて風邪を引かないように注意しながら、いつもの道をとぼとぼと歩いていた。その姿は見るから神々しかった。娘は一目それを見て、泣いて父親に実を告げた。それで寺の教化は近隣に及んだ。そう云われていますが、この白隠禅師のようなのが善行です。自分が善行を行っていると意識してする行いは総て穢れた善行。穢れた善行は善行ではないと、そう云うのです。

Back    Next


岡潔講演録(31):「岡潔先生と語る」(3) - 西洋の真似はやめよ - topへ


岡潔講演録 topへ