「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【23】 偶然、必然、不思議
(男性)偶然とか必然とかいうことについてですが、偶然にたまたま出会ったという場合も、何かの縁でしょうというようなことを云いますが、普通はそういうようにスーッと考えておけばよいのでしょうか。あるいは、それを第二の心というところまで掘り下げて受け取るべきなのでしょうか。それとも、そういうことはあえて考えなくてもいい訳ですか。
(岡)ええ、考えないのがよいでしょう。でなきゃ迷信を喜ぶという方へ行きがちです。人はどうせほとんど何も知らない。だからそういうこともわからない。で、そういう範囲でわかってることを必然と云う。わからんことを偶然と云う。その言葉の使い方はそれがよいと思います。偶然が偶然でないとわかる智力は、全体を一目でみる智力、大円鏡智です。大円鏡智が働けば、随分いろんな偶然と思ってることが必然であることがわかるでしょうけど、そういう智力の働かない凡夫は偶然を偶然と思ってるのがよいでしょう。
(男性)例えば、化身とか、あるいは冥見と云うのか知りませんが、不思議なものだなあと、そういう不思議ということを感じるのはやはり大円鏡智ですか。
(岡)おかしなものを不思議だと人は思いがち。松の含水炭素はどこへどう使われても松になり、竹の含水炭素は滴々竹になる。不思議だなあというふうに、不思議という言葉を使こうべきです。一切がみな不思議なん!その不思議を不思議ともみないでおいて、おかしな所へだけ不思議という言葉を人は使いがちですが、これは迷信への一歩です。
(男性)そうすると、不思議だなあというふうに働いている場合が普通なんですね、それがいい訳ですね。
(岡)けど働いてやしないんです。不思議を不思議と思えないんです。で、普通、不思議を不思議と思ってる人にはめったに出会いやしません。で、思ってないん。思わなきゃいけない。感覚麻痺でしょうな。妙観察智がよく働かない。
向こうに緑の木があり、こちらに自分がある。そこで不思議だなあって云ったら、アハハ。
ともかく、第二の心というのはまことに不思議なものです。普通、おかしなものを不思議だ不思議だと云ってる。
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