「岡の大脳生理」
【2】 すみれの言葉(1)
紫の火花 1963年9月23日
時実さんは大脳側頭葉を記憶、判断としておられるが、そして実際学生を見ていると、大脳側頭葉で判断もしているらしく見えるが、私はまだ一度も大脳前頭葉を使わずに判断したことはない。記憶をどう探ってみてもない。
以前、奈良女子大の数学教室は8号館という独立した建物にあった。職員室は2階にあったが、私達の入っている職員室では誰も時計を持っていなかった。だからいま何時か見たくなったら、下へ降りて、入口のところにかかっている時計を見てきていたのである。
数学の問題に考えふけりながら時計を見にいくと、いろいろのことがある。
一番ひどい場合は、何しに行ったのか忘れて、便所へ行って、そのまま小便して上へあがる。もう少し考え込み方の浅いときは、時計があることだけを見て、上へあがる。文字通り時計を見てきたわけだが、これじゃ仕方がない。その次に考え込み方の浅いときは、時計と、それから針の位置とを見て、それを記憶して上へあがる。
この場合だと、上へあがって自分の部屋へ入ってから、針の位置はこことここだというので、大体は推理してどちらが大針、どちらが小針かわかる。従っていま何時何分かわかる。これは、記憶だけしてきて、判断は上にあがってから大脳前頭葉を働かせてしたというよい例である。
考え込み方の一番浅いときは、下へ行って時計を見、その場で時間を知るが、このとき時間を知るだけで、何のために時間を見たのかわからなかったような例は、どうたずねても1つもない。これによっても、私は大脳前頭葉を使わずに判断できたためしはない、ということがわかるのである。このように、私は大脳前頭葉を働かさねば判断できないように訓練されてしまっているので、数学以外の景色その他が目に入ろうと、入らなかろうと、全然無関心である。私はそんなものには一切関心を持たない。つまりその時期には、完全な精神統一が行われているのである。そして色々のことがわかってくる。これが情操型の発見である。
だから、この情操型発見のためにぜひ必要なことは、大脳前頭葉が関与しなければ決して判断できない、という癖をつけてしまうことである。でなければ、禅の臨済宗の人がしているように、景色など一切消えるのでなければ完全な精神統一はできない。学問における情操型の精神統一というのは、これに反して、景色は見えているが、それに何の関心も持たないという型のものである。
なお、このときどんな喜びが伴うかというと、長閑な春のような感じである。道元禅師が、季節のうちでは常に春のことをいい、他の季節のことは一切言っておられないのは、ここのことだと思う。
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