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2013.7.27up

岡潔講演録(7)


「岡の大脳生理」

【3】独創とは何か

紫の火花 1963年11月

 いつも言うことであるが、時実さんの『脳の話』によると、大脳側頭葉は記憶、判断を司り、大脳前頭葉は感情、意欲、創造を司るとある。この創造とは何かということである。このことだけから、いち早くこういう示唆をうけるであろう。創造とは記憶や側頭葉的(類型的)判断とは別のものであって、感情、意欲を離れては無いものである。

 自然以外に心というものがある。これについても一度言ったのであるが、もう一度繰返して言おうと思う。この繰返すということを今日の編集者はきらう癖がある。読者の心を忖度(そんたく)してのことであろう。しかし「それならもう一度聞いたから」という聞き方ばかりすると、側頭葉的(羅列的)になってしまって、総合像はかけてゆかない。この総合像を描く画布が前頭葉なのである。まずここをくわしく説明しておこう。

 前に小さな子供 についてよく観察しておいた。それを思い出そう。子供は生まれて8ヵ月もすれば順序数がわかる。にもかかわらず、それからさらに8ヵ月もしなければ、自然数の「1」がわからない。これはなぜであろう。時実さんの本によって側頭葉の働きを少しくわしく見ると、知覚、認識等とある。順序数は知覚と認識とができればわかる。だから、順序数の本体は側頭葉でわかるのである。

 しかし、自然数はそうはゆかないらしい。自然数の「1」の 本体が始めてわかるころの子供のありさまを思い出してみると、一時に一事を厳密に実行する、いろいろな全身的な運動を繰り返し、繰り返し行う。どうもこうすることによって、大脳前頭葉がだんだん形づくられてゆくもののように思われる。そう言えば、この子は上機嫌なたちの子なのだが、それまで「ほたほた」笑っていたのが、この時期を境にして「にこにこ」笑うようになった。自分というものが出来てきたのである。自然数は大脳前頭葉によってでなければわからないのだと思う。前頭葉の働きの1つの創造というのは、その基本は、ここに総合像を描くということだと思う。

(※解説4)

 ここでは順序数と自然数との違いから、順序数は側頭葉でわかり自然数は前頭葉でなければわからないという、流石に数学者でなければ気づかないユニークな大脳生理を展開している。岡の手法はいつものことですが微に入り細に入る、まことに柔軟性に豊んだ発想から生まれたものです。

 しかし、先ずここで私が強調したいのは「この総合像を描く画布が前頭葉なのである」というところでして、我々が日頃から頭にイメージや図式や論理や文章を想い描く場所が、この前頭葉の映写膜(スクリーン)ということなのです。

 岡は「前頭葉の共通の広場」という言葉を使っていますが、いわば皆がテーブルを囲んで、そのテーブルの上に物の見取り図を書き、お互いに議論し合うことができるのは、この各自の前頭葉のスクリーンを使っているということなのです。ここから「客観性」とか「科学性」というものが生まれてくるのです。

 

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