「岡の大脳生理」
【4】生命
春風夏雨 1964年4月
近ごろ、生命とは何かがようやくわかって来たように思う。生命とは何か、生命はどこにあるかと人は探しているが、生命という言葉はあっても、その意味を本当には知らない。私がそうであった。
生命とは何かを考えるきっかけになったのは、計算機やタイプライターのキーをたたきすぎて病気になったあげく、自殺する人があると聞いたことである。今の医学は、これについて経験から仮説を立てるまでには至ってないようだからと思って、私なりに自殺の原因を考えた。初めにこう思った。キーを打ちすぎると、大脳前頭葉がだめになって連想力が活発に働かなくなり、何か1つのことを思いつめてくよくよするに至るのだと解釈した。そう思って見れば、近ごろの教育は、タイプライターを打つという、めまぐるしくてしかも単調な職業に似てきたし、一般の人々の生活もやはりそういう傾向にあるといえる。
次はこう考えた。大脳前頭葉の働きは、食物を摂取する場合にたとえると、舌の役割と同じだといえよう。食物は口から入れなくても、食道にゴム管をつないでそこから入れても、栄養をとることはできるが、ものの味は決してわからない。ものの味がわかるためには口を通さなければならないように、すべて学問や知識の味やおもしろさがわかるためには大脳前頭葉を通さなければならない。それをピアノにたとえると大脳前頭葉は鍵盤にあたる、鍵盤をたたけば音が出るように、大脳前頭葉を通して初めて心の琴線が鳴る。だから大脳前頭葉は人の音曲の中心(情緒の中心がそれにあたるのではないかと思っているのだが)に深く結びついているといってよい。
ところで、心の琴線の鳴り方であるが、自覚するにせよしないにせよ、たたけばともかく鳴るようになっており、好きな音だけ鳴らしていやな音を避けることはほとんどできない。だから、タイプライターを打ち続けるというようなこと、つまり微弱な 、きれぎれの意志を働かせ続けるのは、絶えず細かな振動を心の中心に与えていることになる。きれぎれの音は不協和音であり雑音である。しかも小さい細菌ほど防ぎにくいように、微弱な意志の雑音ほど防ぎにくい。
人の音曲の中心はその人特有のメロディーで、これを保護するために周りをハーモニーで包んでいると思われる。そんなデリケートなものなのだから、たえず不協和音を受け取っていると、固有のメロディーはこわされてしまう。そうすれば人の生きようという意欲はなくなってしまうのであろう。
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