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2013.7.27up

岡潔講演録(7)


「岡の大脳生理」

【12】秋が来ると紅葉(要約)

(録音テープ) 1969年9月

 ところが、どうしてギリシャ人や欧米人に第2の心があることが分からんのか。日本人には薄々分かってる。だから真心という言葉がある。無私の心があるくらい分かっている。分かってたら、こんなことにならないでしょう。何故かと言いますと、人の中心は本当は頭頂葉なんです。で、意志はここから出る、命令はここから出る。これを仏教は、意志ですね、念と言います。無念の念です。で、仏教は「人には一日に八億四千の念がある」と形容してます。また釈尊は「人の命は一呼吸の間にある」と言っています。そうすると1つの念が続いている間は一呼吸と、そんな意味ですね。大体、それくらいの頻繁さで出てるのでしょう。この念がずっと回って、前頭葉に達して意となるのです。

 ところで、頭頂葉から前頭葉に行くのに2通りの道がある。1つは前回り、もう1つは後ろ回り。大体2つ。

 その他の行き方はないだろうと思うんです。いっぺん大脳の解剖図をよく見せてもらわないと分かりませんが、ともかく実際あるのはその2つです。前回りして前頭葉へ行く場合がある。頭頂葉、運動領、前頭葉と行くんです。西洋人は念が前回りする。これを以て西洋人の定義とすると良いと思う。

 東洋人は念が後ろ回りする。頭頂葉、後頭葉、側頭葉、前頭葉と行く。これを以って東洋人の定義とすると良いと思う。これ、念がどちら回りして意となるかによって、一切が大へん変る。だから、どこに住んでいるか、皮膚の色がどうであるか。そんな枝葉末節は捨てて置いて、この念が前回りするか、後ろ回りするかで、東洋人と西洋人とを定義したらいいと、そう思うんです。

 念が前回りして、前頭葉へ行って意となります場合、一度運動領を通る。ここは生きようとする盲目的意志が働いていると、仏教は言うんですが、これを無明(むみょう)といいます。つまり四智は働いてない、無差別智は働いてない。この運動領を通りますために、この無明を通りますために、念が意となりました時に、意は2つの不純物を持つ。1つは自分と人とは全く別だと思うんです。自他の別。

 この自他の別ありと執する。これを邪性といいます。

 もう1つは時間空間ありと執する。これを妄性といいます。念が意になります時に、意が邪性と妄性とを持ってしまう。自分と人とは別だし、時間空間はあるしと思うんでしょうなあ。そりゃあ、こんな運動領を通ったら。そうしか思えん。そんなもんだから、前頭葉、一口に言えば平等性智が働いてるんですが、何しろ意がそんな2つを含む。それで平等性智は邪智態の平等性智が働くんです。欧米人が理性といってるものはこれなんです。

 実際、例えば国際紛争が起こると、これを理性的に解決すると彼等はいう。

 どうするか見てますと、最初に現状がどうであるかを調べる。これは全く余計なことです。これが妄性です、実在を執する。現状がどうなっていようと、そんなものとは無関係に、正しいものは正しい、正しくないものは正しくないでしょう 。ところが必ず現状を調べます。これは時間空間を執するといいましたが、実在を執するといってもよろしい。

 それから最後は、これは自分の国は損だとか得だとか、もう言わずにおらない。だから、これは邪性ですね。だから、彼等の国際紛争の処理の仕方を見ますと、自分たちは理性的に取り扱ってるんだと言いますが、全くその言葉は正しいのです。しかし、理性というのは邪智態の平等性智だという外はありません。その通りやっております。そんな風です。

(※解説15)

 先にも見てきたように、次第に前頭葉と頭頂葉の関係が鮮明となってくるのですが、生きた人間を説明するためには、もっとダイナミックに仏教の説く「念」というものを大脳生理に導入することによって、この構想が生まれてきたのです。

 岡はこの前年、第1の心は前頭葉、第2の心は頭頂葉に宿ることがわかってきていたのでして、その「無意識の座」である頭頂葉から「意識の座」である前頭葉に、どういう経路で「念」が流れるかを推理し、その結果この仮説が生まれてきたのです。

 前回りが西洋、後ろ回りが東洋という、これは東西文明の心臓を最もシンプルに定義した歴史上希に見るものであり、「どこに住んでいるか、皮膚の色はどうであるか」は全く関係がないと岡はいうのです。

 この理論は晩年中期を一貫して流れる考え方で、岡の大脳生理の中でもダイナミックな動きのある特にユニークなものです。実は、私は20年程前に、人前でこの理論を発表したことがあるのですが、一笑に伏されたことを今も憶えています。

 

  笑はれざれば以って道となすに足らず  老子

  

(※解説16)

 

 岡は国際紛争における西洋の理性の限界について言及していますが、国際紛争のみならず、これは西洋文明全般を知る上で大変重要なところです。これについては先の解説「一滴の涙」の中でも、私なりに少し触れました。

 

 我々日本人は意識しないですが心の世界が深いので、純度の高い理性が働くのですが、 今の国際関係を見てもわかるとうり、西洋のみならず東洋でも理性の純度はそれほど高くなくて、大概は邪智型理性しか働いていないようです。日本人であれば公明正大に謙虚に物を見るという極く当たり前のことが、彼等にできづらいのはそのためです。

 ただ、現在の西洋と東洋の理性をひとくくりにしましたが、西洋の理性と古来からの東洋の智慧とは明らかに次元が違っています。今の中国でも道徳の根底を支えている「情」ではなく、道徳の形式である「知」を重視する伝統が潜在的に働いていて、その「知」に飽くまでも固執するという悪い面が現実社会に現れていますが、少なくとも西洋の理性は「第1の心」のものであり、古来からの東洋の知慧は「第2の心」のものです。

 

 しかし、日本は「第2の心」の情の世界ですから、西洋の理性とも東洋の知慧とも質的に違っていて話が合いにくいのでして、日本はその点を十分考慮して国際関係を築いていかなければならないと思います。

 

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