「岡の大脳生理」
【12】秋が来ると紅葉(要約)
(録音テープ) 1969年9月
ところが、どうしてギリシャ人や欧米人に第2の心があることが分からんのか。日本人には薄々分かってる。だから真心という言葉がある。無私の心があるくらい分かっている。分かってたら、こんなことにならないでしょう。何故かと言いますと、人の中心は本当は頭頂葉なんです。で、意志はここから出る、命令はここから出る。これを仏教は、意志ですね、念と言います。残念無念の念です。で、仏教は「人には一日に八億四千の念がある」と形容してます。また釈尊は「人の命は一呼吸の間にある」と言っています。そうすると1つの念が続いている間は一呼吸と、そんな意味ですね。大体、それくらいの頻繁さで出てるのでしょう。この念がずっと回って、前頭葉に達して意となるのです。
ところで、頭頂葉から前頭葉に行くのに2通りの道がある。1つは前回り、もう1つは後ろ回り。大体2つ。
その他の行き方はないだろうと思うんです。いっぺん大脳の解剖図をよく見せてもらわないと分かりませんが、ともかく実際あるのはその2つです。前回りして前頭葉へ行く場合がある。頭頂葉、運動領、前頭葉と行くんです。西洋人は念が前回りする。これを以て西洋人の定義とすると良いと思う。
東洋人は念が後ろ回りする。頭頂葉、後頭葉、側頭葉、前頭葉と行く。これを以って東洋人の定義とすると良いと思う。これ、念がどちら回りして意となるかによって、一切が大へん変る。だから、どこに住んでいるか、皮膚の色がどうであるか。そんな枝葉末節は捨てて置いて、この念が前回りするか、後ろ回りするかで、東洋人と西洋人とを定義したらいいと、そう思うんです。
念が前回りして、前頭葉へ行って意となります場合、一度運動領を通る。ここは生きようとする盲目的意志が働いていると、仏教は言うんですが、これを無明(むみょう)といいます。つまり四智は働いてない、無差別智は働いてない。この運動領を通りますために、この無明を通りますために、念が意となりました時に、意は2つの不純物を持つ。1つは自分と人とは全く別だと思うんです。自他の別。この自他の別ありと執する。これを邪性といいます。
もう1つは時間空間ありと執する。これを妄性といいます。念が意になります時に、意が邪性と妄性とを持ってしまう。自分と人とは別だし、時間空間はあるしと思うんでしょうなあ。そりゃあ、こんな運動領を通ったら。そうしか思えん。そんなもんだから、前頭葉、一口に言えば平等性智が働いてるんですが、何しろ意がそんな2つを含む。それで平等性智は邪智態の平等性智が働くんです。欧米人が理性といってるものはこれなんです。
実際、例えば国際紛争が起こると、これを理性的に解決すると彼等はいう。どうするか見てますと、最初に現状がどうであるかを調べる。これは全く余計なことです。これが妄性です、実在を執する。現状がどうなっていようと、そんなものとは無関係に、正しいものは正しい、正しくないものは正しくないでしょう 。ところが必ず現状を調べます。これは時間空間を執するといいましたが、実在を執するといってもよろしい。
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