「2つの心」
【3】 西洋の唯物主義
大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。
実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。
また安定な素粒子、安定な素粒子の代表は電子ですが、電子には絶えず不安定な素粒子が衝突している。だから安定してみえるのは位置だけであって、内容は刹那に変わっているのかもしれない。そうも考えられる。もしそうだとすると、山崎弁栄上人が自然は映像であると云っているのと同じになるんですね。今の自然科学では、自然は存在でないことはわかっているが、安定な素粒子というものがあるから、全体が映像かどうかはわからない。そういう状態です。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられる。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。
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