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 2013.01.26 up

岡潔講演録(2)


「2つの心」

【3】 西洋の唯物主義

 大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

 実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。

 また安定な素粒子、安定な素粒子の代表は電子ですが、電子には絶えず不安定な素粒子が衝突している。だから安定してみえるのは位置だけであって、内容は刹那に変わっているのかもしれない。そうも考えられる。もしそうだとすると、山崎弁栄上人が自然は映像であると云っているのと同じになるんですね。今の自然科学では、自然は存在でないことはわかっているが、安定な素粒子というものがあるから、全体が映像かどうかはわからない。そういう状態です。

 西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられる。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。

(※ 解説6)

「西洋の学問」とは何か。これがなかなか曲者(くせもの)でして、西洋の学問は非常に精密で体系的ですので、これが大脳前頭葉の働きでしょうが、我々日本人は明治以後それに頭が上がらないのです。しかし、その本質を一言でいえば「浅知恵」の部類に入る。

文学系と理学系、いずれにしても第1の心、自我の世界の学問といわざるを得ない。政治経済は「自己本位の個人がある」という大前提を捨てることができませんし、文学や芸術は岡のいう「懐かしさと喜びの世界」からは程遠く、批判主義、虚無主義、享楽主義、ひどいのはフロイトのいう性欲から離れることができません。

理学系では非常に科学的実証性を重んじますが、そこで頼りになるものは全て目に見える「物質」です。「物質」を精密に調べていきさえすれば、いずれ全てがわかるだろうと思ってやっていくと、枝葉末節なことは随分わかったように見えますが、根本問題の多くは一向に解決されていない。そればかりか、今では科学技術全体が足元から崩壊をはじめ、それを止める手建てが見つからないのが現状だといっても過言ではありません。岡にいわせれば、そもそも物質から全てを説明すること自体が無理なのです。

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