【5】 公害という問題
それ、わかるでしょう。これがわかっていないから、知的にいっても今の教育は全然駄目なんです。上滑りしてしまって、形式しかわからない。本当にわかったんじゃない。「悟る」というのは本当にわかって自覚する。これは情の目で見極めることです。
芭蕉は「散る花、鳴く鳥、見止め聞き止めざれば留まることなし」といっていますが、見止め聞き止めるのは情の目で見極めるのである。情の目で見極めるのが「悟る」「自覚する」ということです。そうすれば存在して消えない。
存在を与えているものは情だけです。これも銘々経験があるでしょう。深い印象とか深い感銘、これは決して消えないでしょう。生涯消えないでしよう。こんな力を持っているのは情以外にありません。
人の本体は情であると知ることは、非常に大切なことなんです。大勢の人がそれがわかったら、例えば教育はいっぺんに改められます。そうすれば余程変わって来る。そうする以外にやりようがない。
公害という問題が欧米から輸入されて、日本で大分やかましくいわれている。日本人は、人は情の動物であるということは、自覚なしにだけどよく知っている。それと共に、もう一つ詰まらないことを思っている。文化とは外国から入って来るものだと思っている。外国から入って来ないものは文化にあらずと思っている。
それで公害という言葉、これは文化の一種ですね。外国から入って来て、日本で大分やかましくいわれている。外国にオリジンがあるから、こんなにジャーナリズムが取り上げたんですよ。しかし公害、さっぱりうまくいかない。何故うまくいかないかというと、情の濁りから取り去らないからです。単に濁りだけじゃありませんが、情からきれいにして行かないからうまく行かない。
これは二つの点でうまく行かないのです。一つは情が濁っていますから、すぐ自己中心の考えに走る。それで企業が公害を取り除くことに反対します。政府だって、やはり産業優先というようないことを考える。一つはそういう害がある。
もう一つは、情が生き生きと働かなかったら、存在というものがない。それで淀川を見ても、これはひどい濁りだなあと思っても、それが見えなくなったらけろりと忘れる。だから公害だって、みんなが絶えず心に留って、気に掛かるという風じゃない。
この二つからうまく行かない。それで情をきれいにし、よく働かすようにするより仕方がない。
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