【6】 日本歴史の概要
日本歴史を昔からずっと見てみますと、応神天皇以前は多分うまく行っていた。が、応神天皇の時、中国から文化を取り入れた。そうすると、知が人の中心だといっている。その後、印度から仏教を取り入れた。やはり知が中心だといっている。ともかく情が大事だといってない。
それで本居宣長の頃になって、「漢意清く捨てらるべし」、そんな風になって来た。どんな風にいけなかったかというと、ともかく儒教の修行も仏教の修行も、ひどく陰気くさく見えたんだと思う。
儒教は形式一点張り。だから裃を着て、しゃちほこ張ったようなものになってしまう。仏教の方は難行、苦行が多い。大体、意志の修行です。だから矢張り暗いものになってしまう。そうしてうまく行かなかった。それだけじゃなく、単に濁りを取るということに留めて、情を積極的にはぐくみ育てるということを全然しない。つまり今でいえば、情操教育ということをしない。
情操教育という言葉ですが、情操教育が大事だっていったら、絵をかかせたり、音楽ひかしたり。そんな馬鹿な。人本然の情がよく働くようにするのが情操教育です。まるで見当外れをやっている。
ともかく情を軽んじたんでしょう。だから本居宣長
しきしまの大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
情緒というものが大事であると思っているんでしょう。はっきりそうとわかっていませんが、何となくそれがわかったんでしょうね。それで「漢意清く捨てらるべし」といったり、「しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」といったりしたんでしょう。
情が自分だから、情を大事にせよとずばりといえなかったんだが、あそこでもっと自分を振り返ってみる暇があったら、それのわかる日本人も出て来たかも知れない。あそこでは、ぐずぐずしていたら滅ぼされてしまうという、そういう状態にあったから、大急ぎで明治維新をやった。それから外国と戦う為に兵器を準備した。
兵器を準備しようと思ったら、西洋の学問より仕方がない。それで西洋の学問を取り入れた。そのうちにすっかり西洋の学問に溺れてしまった。戦後はそれが極端にまで来ている。
こんな風な訳で、日本人はまだ一度も応神天皇以前の日本人がどんな風だったかということを、ゆっくり考え自覚する暇がなかった。それで一人も、日本人は情の人であると、それが人として正しいのである、といった人はいないのです。が、それが非常に大事です。
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