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2014.03.07up

岡潔講演録(10)


「民族の危機」

【4】 無差別智 (人は物質的自然に住めぬ)

昭和44年(1969)1月 - 2月

大阪新聞

 自然科学が、物質現象の一部分しかわからないというのでは、全くの無知という外ない。人類はこの無知に甘んじるのがいやならば、少しだけ仏教のいうところを聞かなければならない。仏教はこういうのである。

 はじめに悠々(ゆうゆう)とした心があって、その心の中に自然を浮かべ、人の世を浮かべているのである。この心は時間的にも空間的にも際涯がない。だから心理学の対象になっているような小さな心ではない。またこの心は一面唯一つであって、他面一人一人個々別々である。

 こういっているのである。それでは人が知覚し、運動することができるのはなぜであるかと聞くと、人が普通に経験するのは理性のような型の知力であって、これは意識しなければ働かないし、少しずつ順々にしかわかっていかない。しかしときとして、たとえば仏道の修行や数学の研究のときなどに働くこれとはまったく型の違った知力がある。この知力は無意識に働いて一時にぱっとわかる。これは無差別智といい、知情意に働く力である。人が知覚し、運動できるのは、この無差別智が悠々とした心に働くからである。

 そうすると、人がその中に住んでいる自然は、五感でわかる部分だけではなく、五感ではわからないが、たえず無差別智が働いているようなところでなければならない。しかし、悠々とした心の世界は、2つの心が一面2つであって他面1つだというのだから、数学の使えない世界である。これに反して物質的自然は数学の使える世界である。だから無差別智は物質的自然には働き得ないのである。だから人は物質的自然の中には住めないのである。

  

(※解説4)

 この「無差別智(直観)」のことについては、以前に一度概略を説明したのだが、改めてここでもう一度説明してみたい。

 書店で並んでいる出版物を見てみると、「直観」といえば大概ただ1種類で、頭に浮んだ「ひらめき(インスピレーション)」のことだと一般に思われているようであるが、岡のいう「直観」は1種類ではなく4種類あって、しかももっと裾野が広く人間活動全般を説明するに不可欠のものである。

 先ず、宇宙にあまねく4種類の直観が働いている。この直観は心の世界の宇宙の中心(第9識)から発散されている。我々人間だけでなくあらゆる生物は、この直観を利用することができるから生命現象が成立するのである。

 では、なぜ頭の中に「イメージ」が浮かぶのか。宇宙の「大円鏡智(だいえんきょうち)」(観念)を使っているからである。読んで字の如く「大きな円い鏡に世界が映る」ように、物体の形や物の構造がわかったり、町並みが頭に浮かんだり、学問の体系がわかるのも全てこの大円鏡智である。スピリチュアルな世界で昔からよくいわれる「千里眼」はこの大円鏡智の根本的な働きである。

 では、なぜ「理性」できるのか。宇宙の「平等性智(びょうどうしょうち)」を使っているからである。これは「共通で平等に与えられた性質の智」という意味で、数学や将棋や推理小説や科学的論文がわかるのはこの直観によるのである。

 仏教は「平等性智が大宇宙を支えている」といっているが、物質や物体があるとしか思えないのもこの直観の働きであるし、心に存在を与えるのもこの直観であって、「これだけは間違いない!」という「自明」がわかることや、確固とした「道徳心」を持てるのもこの直観である。だから非行少年や、岡の嫌う「無節操」や「変節」はこの直観の欠如である。

 では、なぜ人は「運動」できるのか。宇宙の「妙観察智(みょうかんざっち)」(認識)を使っているからである。これは「妙なる観察の智」という意味で、この直観はレパートリーが広い。

 主に「ものの心」がわかる直観、つまり自分が対象物になり切ることによって対象物を知るという直観であって、「テレパシー」はこの直観の働きということになる。物真似ができたり、人の心理を読んだり、情景の雰囲気がわかるのもこの直観である。だから文学や芸術全般は主にこの直観の働きであって、私にはとても経験がないがよく耳にする「瞬時の空間移動」もこの直観の根本的な働きである。

 最後に、なぜ「感覚」できるのか。これは単純な「成所作智(じょうしょさち)」の働きである。その意味は「各所各所を成立するに作用する智」ということで、我々の日常の感覚的経験ばかりでなく、実験重視の自然科学はこの直観の上に乗っかっているのである。

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