okakiyoshi-800i.jpeg
2014.03.07up

岡潔講演録(10)


「民族の危機」

【5】 真我(しんが)小我(しょうが) (仏教の根底を信じよ)

昭和44年(1969)1月 - 2月

大阪新聞

 仏教のいうところによると、悠々(ゆうゆう)たる心が自分である。これを仏教では真我といっている。しかし人はまたしても五感でわかるものしかないと思いがちであるから、五尺のからだを自分と思う。これを仏教では小我という。

 仏教は小我は迷いであるから、真我を自分だと(さと)れと教えているのである。真我は不死である。不死を自覚している人を不死の人という。西郷隆盛は大丈夫であるための条件をいろいろ並べたが、たいせつなのは、はじめの2つである。「命もいらず、名もいらず」しかしこれは容易に行なえないのであって、易々とその通りに行為することは、不死の人にしてはじめてできるのである。

 また、真我の人は、すべての人の喜びを自分の喜びとし、すべての人の悲しみを自分の悲しみとしている。つまり観音菩薩(かんのんぼさつ)と同じ心である。わたしは仏教のいうところをそのまま信じるつもりはない。自然科学と同じように、自分の目で見ようと思って、すでにはじめている。

 しかし、物質的自然は肉体にそなわった五感でみればよいのであるが、仏教のいうところを自分の目で見ようとすると無差別智という目をじゅうぶんに用意しなければならない。これにはながい修行がいる。だからそれまでの間は仏教のいうところを信じているより仕方がないのである。

 自然科学はすぐに自分の目でたしかめられる学問である。そのかわり物質現象のごく一部分しかわからない。仏教の上にのべた部分は、この自然科学にかわる学問である。そのかわり、自分の目でたしかめるのにながい時間がかかる。その間は信じるより仕方がない。仏教の根本的な部分を信じるとはこういう意味である。

(※解説5)

 この「真我」と「小我」という別け方は岡によれば仏教からのものであるが、東洋では概してこのような別け方をする。中国では「君子」と「小人」という別け方があるし、「聖人」と「凡人」という別け方もある。「君子」とは「無私の心の持主」というぐらいの意味だろうし、「小人」とは「自己中心の見方しかできない人」という意味だろう。

 ところが西洋やその周辺では人と神とが対立関係にあるから、人が「無私の心」を体現して「神」に近づこうなどということはとんでもないことで、キリスト教では人は全て「罪の子」であって「神」のみが完全無欠の存在だと思っているのだろう。そうなると必然的に我が神とつながっていない異教徒は全て存在する価値などない、という道理になってしまうのであるが。

 しかし、昔から日本では、「無私の人」が死ねば「神」と呼ばれるし、生きている人でも「正直の首に神宿る」のである。更に「お客様は神様」とまで呼ばれるのである。人の心の中に神(真我)を見ない限り、人類に真の平和は訪れない。

Back  Next


岡潔講演録(10)民族の危機topへ


岡潔講演録 topへ