「民族の危機」
【5】 真我と小我() (仏教の根底を信じよ)
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
仏教のいうところによると、悠々()たる心が自分である。これを仏教では真我といっている。しかし人はまたしても五感でわかるものしかないと思いがちであるから、五尺のからだを自分と思う。これを仏教では小我という。
仏教は小我は迷いであるから、真我を自分だと悟()れと教えているのである。真我は不死である。不死を自覚している人を不死の人という。西郷隆盛は大丈夫であるための条件をいろいろ並べたが、たいせつなのは、はじめの2つである。「命もいらず、名もいらず」しかしこれは容易に行なえないのであって、易々とその通りに行為することは、不死の人にしてはじめてできるのである。
また、真我の人は、すべての人の喜びを自分の喜びとし、すべての人の悲しみを自分の悲しみとしている。つまり観音菩薩()と同じ心である。わたしは仏教のいうところをそのまま信じるつもりはない。自然科学と同じように、自分の目で見ようと思って、すでにはじめている。
しかし、物質的自然は肉体にそなわった五感でみればよいのであるが、仏教のいうところを自分の目で見ようとすると無差別智という目をじゅうぶんに用意しなければならない。これにはながい修行がいる。だからそれまでの間は仏教のいうところを信じているより仕方がないのである。
自然科学はすぐに自分の目でたしかめられる学問である。そのかわり物質現象のごく一部分しかわからない。仏教の上にのべた部分は、この自然科学にかわる学問である。そのかわり、自分の目でたしかめるのにながい時間がかかる。その間は信じるより仕方がない。仏教の根本的な部分を信じるとはこういう意味である。
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