「民族の危機」
【6】愛国とは真我 (物質主義は小我ふやす)
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
さて愛国であるが、明治維新は志士たちによって成就したのである。もしこれができていなかったら、日本は亡びてしまっていたに違いない。ところで志士とはどういう人かというと、自分の身辺のことよりも国のことの方がはるかに強く心配になった人である。
これは小我の人ではない。真我の人とまではいえなくても、よほどその傾向の強い人である。こういう人を真我的な人というのがよいだろう。
それが明治になって日本は物質主義を取り入れてしまった。そうすると必然小我が自分ということになる。とにかく言葉だけはそうなった。言葉がそうなっても、なかなか心まではそうはならない。しかし時間がたつとともに、日本にはだんだん真我的な人が減って小我的な人がふえていった。
小我の人の愛国といえば、全体主義か偏執狂かより仕方がない。だから日本人の愛国にはだんだんそういう不純物がまじっていった。そして終戦になった。終戦後日本は「日本国憲法の前文」を高々と掲げた。これは小我が自分だというのである。そしてこれによって憲法、法律をつくり、それにもとづいて社会通念をつくり、それを米人デューイーの教育学で裏打ちして、それにもとづいて新学制をつくった。
これでは前にいった通り、愛国とは全体主義か偏執狂かになってしまう。自分とは小我ではなく真我であったのだということをみんな早く思い出さなければいけない。そうすれば日本における愛国とは菩薩道()であるということがよくわかるであろう。
欧米人は小我を自分だとしか思えない人種なのである。だからキリストはお前たちは罪の子だといったのである。欧米における愛国と、日本における愛国とは全く内容が違うのである。
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