「民族の危機」
【8】教育は師道なり」 教える先生で左右される
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
いま実施している教育の結果は非常に悪い。これは厳然たる事実である。しかし、少数ながら例外的に非常によくいっているところもある。
たとえば三重県の尾鷲小学校、大阪市の北陵中学校、長野県の辰野中学校、信州大学付属長野中学校などである。児童、生徒の顔付きが非常によいし、私の講演が聞く子供達の心によくしみ込んでいることが、表情の動きでよくわかる。これもまた厳然たる事実である。
この2つの事実は何を示しているかといえば、小、中学校の教育は教える先生のよし悪しによって非常に変わると言うことである。実際これらの学校は、いずれも校長が非常によく、よい先生を集めていて、親たちもよくこれをバックアップ(後援)しているのである。
先生の全人格と児童、生徒の全人格との触れ合いが、教育の中心神髄であると言うことを、古来師道と言い慣わしてきた。明治以前の日本の教育はすべて師道であった。先生は学問というものを通して、自分の人格によって生徒の人格をつくっていたのである。
一番うまくいった例は、吉田松陰の松下村塾である。この塾は長州藩の萩の近くにある。主として藩の下級武士の子弟を教えたので、人数は20人足らずであった。教えた期間は、松陰は終わりごろは長州の野山の獄につながれていたのであるが、その期間を合わせても2年くらいである。
それなのに松陰は自分の烈々たる気魄を弟子たちの頭に植え込むことに成功した。明治維新の幕は、この弟子たちが切って落としたのであって、そのはげしさはまったく胸がすくようである。
松陰は安政の大獄で捕えられた。斬罪が決まり、その日になり、その順番が来て、寅次郎立ちませいといわれて立ち上がったとき、松陰には、自分にも不思議なことに、突然喜びがこみ上げてきた。
それでこのせわしいさ中に、ちょっと待ってくれといって、それを歌に書き残している。松陰は真我の人だったのであって、それだからこのような教育ができたのである。
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