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2014.05.11up

岡潔講演録(10)


「民族の危機」

【8】教育は師道なり」 教える先生で左右される

昭和44年(1969)1月 - 2月

大阪新聞

 いま実施している教育の結果は非常に悪い。これは厳然たる事実である。しかし、少数ながら例外的に非常によくいっているところもある。

 たとえば三重県の尾鷲小学校、大阪市の北陵中学校、長野県の辰野中学校、信州大学付属長野中学校などである。児童、生徒の顔付きが非常によいし、私の講演が聞く子供達の心によくしみ込んでいることが、表情の動きでよくわかる。これもまた厳然たる事実である。

 この2つの事実は何を示しているかといえば、小、中学校の教育は教える先生のよし悪しによって非常に変わると言うことである。実際これらの学校は、いずれも校長が非常によく、よい先生を集めていて、親たちもよくこれをバックアップ(後援)しているのである。

 先生の全人格と児童、生徒の全人格との触れ合いが、教育の中心神髄であると言うことを、古来師道と言い慣わしてきた。明治以前の日本の教育はすべて師道であった。先生は学問というものを通して、自分の人格によって生徒の人格をつくっていたのである。

 一番うまくいった例は、吉田松陰の松下村塾である。この塾は長州藩の萩の近くにある。主として藩の下級武士の子弟を教えたので、人数は20人足らずであった。教えた期間は、松陰は終わりごろは長州の野山の獄につながれていたのであるが、その期間を合わせても2年くらいである。

 それなのに松陰は自分の烈々たる気魄を弟子たちの頭に植え込むことに成功した。明治維新の幕は、この弟子たちが切って落としたのであって、そのはげしさはまったく胸がすくようである。

 松陰は安政の大獄で捕えられた。斬罪(ざんざい)が決まり、その日になり、その順番が来て、寅次郎立ちませいといわれて立ち上がったとき、松陰には、自分にも不思議なことに、突然喜びがこみ上げてきた。

 それでこのせわしいさ中に、ちょっと待ってくれといって、それを歌に書き残している。松陰は真我の人だったのであって、それだからこのような教育ができたのである。

(※解説8)

 私は岡潔先生以外に2人、この人生で大きく影響を受けた恩師といえる人がいる。1人は先にも触れた高校の恩師、内田八朗先生である。

 私は内田先生の著書「教育に生きる」を高校在学中に読んで感激し、内田先生のお宅まで押しかけ「私は大学へは行かず、先生の弟子にしてほしい」と申し入れたことがある。その申し入れは柔かく断られたが、その後も著書に書かれた先生の言葉である「高知学芸建学の精神」が、脳裏に刻まれて消えることはない。

 「この私共のささやかな営みが、やがて回天の大事業につながって、新生日本に1つの意義をもたらすことを信じたい気持ちでした。」 内田八朗

 この内田先生の理想が、私のこの「数学者 岡潔思想研究会」設立の精神的支柱となっているのである。

 またその「教育に生きる」にはこんなことが書いてある。

 「ああ、一年生、ことし初めてこの世に生まれ、帽子もくつも新しく、記章もひとみも輝く生徒、彼らは決して豺狼(さいろう)の子ではないはずです。あなたはちっともよろいを着たり刃物をかざしたりすることはありません。朝は早く出勤し、なによりも和気に満ち、目を細くして親切に応待しなさい。出身学校や家庭のこれまでのしつけを高く買いなさい。そして徐々に、きわめて徐々に、あなたの英知の甘露を一滴一滴と落としてごらんなさい。」

 これが岡のいう「師道」ではないだろうか。私はこの内田八朗著「教育に生きる」を教育現場のためにも是非復刻したい。

 今1人は、この研究会を立ち上げると同時に出会った、私が絵の会を作っている大野長一先生であるが、先生についてはまたの機会に譲りたいと思う。

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