「民族の危機」
【19】 発見の鋭い喜び (アルキメデスがよい例)
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
数学上の発見は無差別智の働きによって出来るのであることには変わりが無いが、ボアンカレーは欧米人だからそれを潜在識的にしているし、私は日本人だからそれを悟り識的にしたのである。その著しい違いは2つある。
無差別智は頭頂葉に働く、そして数学上の発見と言えば真の創造であるが、これも頭頂葉に実るのである。真の創造が頭頂葉に実れば、女が妊娠したときと同じである。前頭葉は関係しないから精しい意識は無いが、妊娠したと言うことは信じて疑わない。
また真の創造は、その影を前頭葉と言ういわば映写膜に写すと意識的にハッキリわかる。それを紙に書き写したのが数学の論文であるが、これは分娩に相当する。こうすれば忘れてしまう、しかしこうしなければ決して忘れないのである。私は数学上の発見をした後9ヶ月間書かずに捨てて置いたことがある。この疑いが後を絶つと言うことが、悟り織でしたときでなければ起らないのである。
今一つは悟り織でした数学上の発見には、必ず「発見の鋭い喜び」(寺田先生の言葉)が伴うことである。これも潜在識でしたときは伴わないから、欧米人はそのことを決して言わないのである。
発見の鋭い喜びの一番よい例はアルキメデスのものである。キプロス島の王が金の王冠を作らせた。然し王は果してこれが底まで金かどうかを疑った。王冠を切らないでそれを調べよと王に命じられたアルキメデスは困り切って風呂に入ると、ナミナミと張っていた湯がザーッとこぼれた。
アルキメデスはこの方法で王冠の容積を測りうることを知り、あとは重さを比較するだけだと思って、喜しくて、予は発見せりと叫びながら街を裸で飛んで帰った。これが「発見の鋭い喜び」である。2千年を経ても目に見えるようである。
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