「民族の危機」
【20】 心打つ真の善行 (意識しないだけに崇高)
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
創造については、昨日は真について見たから、今日は善について見よう。
白隠禅師が大悟して、郷里静岡県のどこかの町で寺の住持をしていた。その時その町の豆腐屋の娘がいたずらをして子を産んだ。娘は父親が怖しかったので、父親は禅師に傾倒していたから、禅師の子だといえば叱られないだろうと思ってそういった。ところが父親は裏切られたと思ってますます腹を立て、寺へ行って黙ってその子を禅師に押しつけた。
すると禅師も黙ってその子を受け取って、乳を貰い歩いて育てた。丁度季節は冬で、その日は朝からはげしく雪が降っていた。禅師は赤ん坊が風邪を引かないように懐に入れていたわりながら、悪い路をいつものように乳を貰いに歩いていた。その姿が見るから神々しかった。娘はそれを見ると、泣いて父親に実を告げた。寺の教化は期せずして遠近に及んだということである。
白隠禅師の行いは、禅師が善行を行っているのではなく、善が自ら行われているのである。自分が善行を行うという善行を、禅では染汚された善行という。自分がという穢いものが入ってけがされてしまっているのである。勿論真の善行ではない。
シュバイツァーはアフリカで黒人の病気を直し、虫一つ殺さなかった。実に感心であるが、まだ自分が善行を行うという域を出られなかったのである。シュバイツァーの場合は前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉の中間にあって運動を司る)が行うから、自分が行うになるのである。
善行の素も頭頂葉に実るので、そうすると頭頂葉が運動領に命令することになるから、意識しないで善行を行うことになるのである。娘は善行を行うことは出来なかった。しかし善行の崇高さはよく分かったのである。テレビかラジオにたとえると、善に対する受信装置は、日本民族は皆持っているらしい。
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