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2014.04.16up

岡潔講演録(10)


「民族の危機」

【20】 心打つ真の善行 (意識しないだけに崇高)

昭和44年(1969)1月 - 2月

大阪新聞

 創造については、昨日は真について見たから、今日は善について見よう。

 白隠禅師が大悟して、郷里静岡県のどこかの町で寺の住持をしていた。その時その町の豆腐屋の娘がいたずらをして子を産んだ。娘は父親が怖しかったので、父親は禅師に傾倒していたから、禅師の子だといえば叱られないだろうと思ってそういった。ところが父親は裏切られたと思ってますます腹を立て、寺へ行って黙ってその子を禅師に押しつけた。

 すると禅師も黙ってその子を受け取って、乳を貰い歩いて育てた。丁度季節は冬で、その日は朝からはげしく雪が降っていた。禅師は赤ん坊が風邪を引かないように懐に入れていたわりながら、悪い路をいつものように乳を貰いに歩いていた。その姿が見るから神々しかった。娘はそれを見ると、泣いて父親に実を告げた。寺の教化は期せずして遠近に及んだということである。

 白隠禅師の行いは、禅師が善行を行っているのではなく、善が自ら行われているのである。自分が善行を行うという善行を、禅では染汚(ぜんな)された善行という。自分がという穢いものが入ってけがされてしまっているのである。勿論真の善行ではない。

 シュバイツァーはアフリカで黒人の病気を直し、虫一つ殺さなかった。実に感心であるが、まだ自分が善行を行うという域を出られなかったのである。シュバイツァーの場合は前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉の中間にあって運動を司る)が行うから、自分が行うになるのである。

 善行の素も頭頂葉に実るので、そうすると頭頂葉が運動領に命令することになるから、意識しないで善行を行うことになるのである。娘は善行を行うことは出来なかった。しかし善行の崇高さはよく分かったのである。テレビかラジオにたとえると、善に対する受信装置は、日本民族は皆持っているらしい。

(※解説20

 ここでは白隠とシュバイツァーの対比がおもしろい。私も岡と出会う前は、シュバイツァーとガンジーに憧れたものである。しかし、岡と出会ってからは岡潔一辺倒となった。それは思想のスケールが桁違いに大きいからである。岡潔1人で東西文明を1つに統合したといっても過言ではないのであって、これによってやっと日本や東洋の西洋との位置関係が明確になったのである。

 さて、この「善」においても岡によれば、西洋と東洋では次元が違っているということだが、更にそれを岡は大脳生理で説明するのだから驚かされる。シュバイツァーといえども西洋の心理学的限界を克服することは難しかったようで、彼の善行は岡からすればまだ不純物のある「意識的善行」になってしまっているようである。

 西洋の「チャリティー」や「ボランティア」は一応立派だとは思うが、岡によれば格調の高い「真の善行」とはいえないのである。特に最近は企業や学校が宣伝用の「ボランティア」を奨励する傾向があるが、これとて同じことがいえると思う。真心を尽した「善行」ならば必ず人目を意識しないはずで、そうした「隠徳」をひたすら積むことが人としては大事なことではないだろうか。

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