「民族の危機」
【23】 裸で触れ合う「師道」 ( 松陰の松下村塾がよい例)
昭和44年(1969)1月 - 2月
大阪新聞
先生の裸の全人格と児童、生徒の裸の全人格とが触れ合う教育を「師道」と云う。日本の明治以前の教育は師道だったのである。先生が学問を教えると云う仕草によって人を作ったのである。
一番巧く行った例は、吉田松陰の松下村塾である。弟子は概して長州藩の下級武士の子弟で、20人足らずであったが、松陰は僅々2年足らずの間に、弟子達の頭(頭頂葉)に、自分の烈々たる気魄を植え込むことに成功した。明治維新が成就しなかったら、日本は亡びていたに違いないのであるが、その幕はこの弟子達が切って落としたのである。その烈しさ、「岩に激する清流、雪と散り玉と飛ぶ」
たとえばその一人、高杉晋作の動き方を見ると、まるで人を呑んでかゝってしまっている。大小、遠近、彼此のようなトウリビアル(どうでもよいこと)は、無と看做()し去っているのである。
師の松陰はどう云う人であったかと云うと、安政の大獄で捕えられ、斬罪が決まり、その日となり、その順番が来て、寅次郎(松陰の通称)立ちませいと云われて立ち上がると、松陰にも意外だっただろうと思うのだが、突然大歓喜が心の底から込み上げて来たらしい。この忙しいさ中に一寸待ってくれと云って、今大変嬉しいと云う歌を書き残している。この歌の写真版を私は持っているのだが字が難しくて読めない。
日本民族の中核は真我の人である。30万年も一緒にいると悠々たる心は合わさって一つになってしまう。それで日本民族の中核は、日本民族の心と云う一つの心である。日本民族の中核の人は、自分はこの心から生まれて来てまた其処へ帰って行く、一片の心だと思っている。
松陰もそう思っている。だから生まれ故郷へ帰るのが急に嬉しくなったのである。この日本民族の心を高天が原と云ってもよい。松陰は其処へ帰って神になったのである。
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