(※解説25)
岡もいっているように「小学校では国語と歴史が最も重要」である。心、自然、社会と別ければ、この国語と歴史は「心の学科」ということになり、これが「頭頂葉」の教育である。
自らを知らなければ他がわからない。他を知るだけで自らを知らなければ、丸で猿の人真似である。日本歴史を知ることが出発点となって、世界を知ることにつながっていくのである。その逆はあり得ない。
その日本歴史の最大の特徴は「自己犠牲」である。「自己犠牲」を浅い心(第1の心)から見ると「犬死に」「無駄死に」と見えるらしい。太平洋戦争の「神風」についても、そういうイメージを持っている人がまだまだ多いようである。
しかし、深い心(第2の心)からその「自己犠牲」をみると「崇高」と見えるのである。この不滅の行為によって我々は深い感銘を受け、生きる力と喜びが生まれ、それに恥じない国を作ろうとするものである。
ただ、気をつけなければならないことは、イスラムの「自爆テロ」は一見この「自己犠牲」に似ているが実はそうではなく「意志の宗教」から生まれたもので、日本のように「情」から生まれたものでないことに留意しなけれなならない。彼等のやることは正に「非情」である。
話をもとに戻して、岡によれば我々の30万年に及ぶ「日本の心」を表現したものが国語なのである。だから西洋文学が入ってきてからのものではなく、日本の物語や古典を先ずは読むことが大切である。
人に個性があるように、民族にも明確な個性がある。今巷でいっている「個性」とは、自我(第1の心)から生まれる自己主張の多様性のことに外ならない。これらはいずれ醜悪なものになりかねず、本当の「個性」とは自我を抑止したところ(無私の心)から生まれてくるものである。
猶、小学校の社会科の批判精神からくる嫌悪感(何でもかでも他が悪いと思うこと)、これが定着してしまった大人が実に多い。これが今の社会の劣化の最大の要因ではないか。岡は既にその本質を見抜いている。
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