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2013.10.05up

岡潔講演録(8)


「自然科学は間違っている」(2)

【3】 時と時間

「新潮」 昭和40年(1965)10月

 たとえば数学で、数学といえども感情の同調なしには成立し得ないということが初めてわかった。これはだいぶわかったほうで、そういう花が咲いたのだから、枯れて滅びる。また新しい種から始めればよいのです。人はずいぶんいろいろなことを知っているようにみえますが、いまの人間には、たいていのことは肯定する力も否定する力もないのです。一番知りたいことを、人は何も知らないのです。自分とは何かという問題が、決してわかっていません。

 時間とはなにかという問題も、これまた決してわからない。時間というものを見ますと、ニュートンが物理でその必要があって、時間というものは、方向をもった直線の上の点のようなもので、その一点が現在で、それより右が未来、それより左が過去だと、そんなふうにきめたら説明しやすいといったのですが、それでいまでは時間とはそんなものだとみな思っておりますが、素朴な心に返って、時とはどういうものかと見てみますと、時には未来というものがある。その未来には、希望を持つこともできる。しかし不安も感じざるを得ない。まことに不思議なものである。そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変る。現在に変り、さらに記憶に変って過去になる。その記憶もだんだん遠ざかっていく。

 これが時ですね。時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、時というものがなかったら、生きるとはどういうことか、説明できません。そういう不思議なものが時ですね。時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。

(※解説4)

 先程のニュートンとアインシュタインの「時間」に対して、岡はここで「時」という岡独自の概念を持ち出している。

 私は以前、友人の物理学者の小原實晃(おはらみつあき)さんにニュートンとアインシュタインの「時間」について尋ねたところ、小原さんは「ニュートンは相対時間、アインシュタインは絶対時間」といえば分かりやすいのではないかと教えてくれた。

 それでいくと岡のいう「時」とは、先の2つの「時間」を質的に遥かに越えた「超越時間」といえば良いのではないでしょうか。

 先の2つの「時間」とは物理空間の中にある肉体の中の自我意識が感じる計量できる「時間」であり、岡のいう「時」とはその肉体を超越した、いわゆる「こころ」が感じる「過去、現在、未来」のことです。だから岡は「時間(時)は情緒に近いのです」といったのでしょう。

 因みに、岡はニュートンが唱えた「時間」というものをどう定義しているかというと、「過去」のもつ「時は過ぎ去る」という属性を観念化、形式化、数値化しただけのものであるといっている。

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