「自然科学は間違っている」(2)
【5】 物理学の限界
「新潮」 昭和40年(1965)10月
アインシュタインのしたことについて一番問題になりますのは、それまで直線的に無限大の速さで進む光というものがあると物理で思っていたのを、否定したのです。それを否定して、しかしいろいろな物理的な公理をそのまま残したのですね。
ところが光というものがあると考えていたアインシュタイン以前では、そういう公理体系は近似的に実験し得るものだったのです。だから物理的公理体系だったのです。ところがアインシュタインは、在来の光というものを否定した。そうすると、仮定している物理の公理体系が残っても、実験的には確かめることのできないものに変ってしまったのです。物理的な公理体系ではなくなったのです。
これはなんと言いますか、観念的公理体系、哲学的公理体系というようなものに変ってしまいます。そういう公理体系の上に物理学を組み上げたことになったのですね。現在はその状態なんです。
だから数学者はそれを問題にしているのですが、現在の公理体系を再び物理学的公理体系たらしめるにはどうすればよいか、そういうことが可能かという問題があるのです。ところが、それはできそうにもない。だから若い無茶の好きな数学者は、そういう準備もしておりますし、ことによるとそれは可能かもしれませんが、たいていの人はやろうともしていない。現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない。なんと言いますか、哲学の一種ですか。そんなふうな状態だから、それ以上立ち入って理論物理のことをやろうとしている数学者はあまりいないでしょう。早晩なんとかしなければならぬとは思うのです。
しかし公理体系の上にいろいろなものを積み上げて、物理学という知的体系の無矛盾が知的に証明できただけではだめだということが、数学の例でわかっていますが、その知的に無矛盾というものを証明することが、すでに到底できそうもないこととして写っているのです。それはアインシュタインが光の存在を否定しましたから。それにもかかわらず直線というふうなものがあると仮定していろいろやっていますね。
物理の根底に光があるなら、ユークリッド幾何に似たようなものを考えて、近似的に実験できますから、物理的公理体系ですが、光というものがないとしますと、これは超越的な公理体系、実験することのできない公理体系ですね。それが基礎になっていたら、物理学が知的に独立しているとは言えません。そこに物理学の一番大きな問題があると私は思います。たいていの数学者もそう見ているだろうと思います。まだ数学者と物理学者はお互いに話し合ってはいませんが。
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