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2013.10.05up

岡潔講演録(8)


「自然科学は間違っている」(2)

【6】 3つのキーワード

「新潮」 昭和40年(1965)10月

 何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというなら認めてよいのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊機械的操作だけなんです。

 だから、いま考えられているような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説がなにかあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とはいえないのです。だいたい自然科学でいまできることと言ったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人類の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論は別にして、たとえば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。

 しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるものであって、建設しているのではない。私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習ったのですが、多分いまでも葉緑素はつくれない、葉緑素がつくれなければ有機化合物は全然つくれないのです。一番簡単な有機化合物でさえつくれないようでは、建設ができるとは言えない。

 いまの機械文明を見てみますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろな動力によってすべてが動いている。石炭、石油。これはみなかって植物が葉緑素によってつくったものですね。それを掘り出して使っている。ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電などといっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱は、このまま掘り進んだら、すぐになくなってしまいそうなものですね。

 そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力電気だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。つまりいまの科学文明などというものは、ほとんどみな借り物なのですね。自分でつくれるなどというものではない。

 だから学説がまちがっていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設は何もできません。いかに自然科学だって、少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変るでしょう。

 こういうことはニュートン力学あたりに始まるのですが、ニュートンは、地球からいうなら太陽の運動、その次は月の運動、それくらいを説明しようとして、ああいうニュートン力学を考え出し、そこで時間というものをつくって入れたのです。ああいう時間というものだって、実在するかどうかわからないが、ともかく天体を見てああいうことを考えているうちに、地上で電車が走るようになったというふうで、おもしろい気がします。しかしその使い方は破壊だけとはいえなくても、少くとも建設ではない。機械的操作なのです。

(※解説8)

 我々20世紀に生まれた人間は自然科学に全幅の信頼を置いていて、今日の自然環境や人類の存在自体が甚だ怪しくなってきているのは自然科学の未発達のためだから、更に自然科学を発達させて、それらの問題を克服しようという意見をよく耳にします。しかし、果してそれは正しいでしょうか。

 岡の見方はそれとは全く逆で、まことに斬新です。岡は自然科学はそれらの問題を克服するどころか、それらの問題を惹起(じゃっき)した張本人であると見るのです。

 その矛先にあるキーワードが「破壊」と「機械的操作」と「借り物」の3つです。この3つのキーワードによって、私は現代の自然科学の正体の謎が計らずも解けたような気がするのです。「機械的操作」とは難しいですが、「仮説の機械的応用」という意味になるのでしょうか。

 ではなぜ、我々はこの暴走する自然科学にブレーキをかけることができないのか。それは「自然科学教」という一種のハイカラな「宗教」に我々が盲目的にしがみついているからだ!と岡はいわんばかりです。

 「民に利器多くして国家ますます昏(くら)し
 人に技巧多くして奇物ますます起る」  老子

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