okakiyoshi-800i.jpeg
2013.11.30up

岡潔講演録(9)


「自然科学は間違っている」(3)

【6】 道元の有時

 しかしこの時と言うものが、単に今いっただけのものならば時は情緒の一種であるといえばよいのです。これで生きるという情緒が出る。厳粛という情緒も出る。希望と云う情緒も出る。偲ぶと云う情緒も出る。が、情緒の一種だと云えば良い。しかし単にそれだけじゃない。時を見きわめると言うことは、これは常人には中々出来ない。だから時について良く調べた人は非常にすぐれた人ですが、例えば、道元禅師は「正法眼蔵」という、上・中・下と岩波文庫に出ていますが、その本の中で非常に詳しく時のことを調べています。いろいろ言っていますが、時には、この、中までぎっしりつまっている時、これを有時(うじ)という。あると言う字と、時という字を書く。これは漢音で有時(ゆうじ)と読むのですが、仏教は宋音ですから有時(うじ)と読む。有時とは「時、空ならず」、中までぎっしりつまっている。平生の時は麦藁のように中が空っぽだ、と云っています。

(※解説8)

 「いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」とは正法眼蔵の中の言葉ですが、これはまるでハイデッカーの「存在と時間」の言わんとするところではないだろうか。

 対談「人間の建設」の中で小林秀雄がいう、アインシュタインの時間論に対抗したベルグソンも同じことを考えているようです。つまり西洋の科学者たちは、人は「時間」の中に住んでいると思ってきたのですが、西洋近代の哲学者はそれはどうもおかしい、人は実際には岡の主張する「時」の中に住んでいるのではないか、という疑問を抱きはじめたのである。

Back    Next


岡潔講演録(9)自然科学は間違っている(3)topへ


岡潔講演録 topへ