「1971年度京都産業大学講義録第23回」
【6】 印象と感銘
ある唱歌の時間に、同級生が何かあまり質のよくないいたずらをした。そうすると心のないわたしは、その尾にのっていたずらをした。そうすると、その当時わたしは坂本と云ったんですが、先生は涙の目でわたしの方をじっと見て、『坂本お前もですか』。
それから『50年』ほど経った。終戦後のことですが、東京放送のある女放送員がわたしに大阪で名刺を渡した。その名刺を見ると古村()なにがし。これは『古村()』と読めるんです。それで丁度その時習ってた歌が
『花あり 月ある孤村の夕べ
何処に繋がん栗毛のわが駒』
この唱歌と共にあの時の先生の涙の瞳がはっきりと思い浮かぶ。たちまち思い浮かんだ。
こういうのを『印象』と云う。また本を読んだりした時によく起こるんですが、深くはいって心の琴線をふるわせる、そしていつまでも心に残る。こういうのを『感銘』と云う。
で、今の例で見ました通り、印象とか感銘とかいうものは、時間が経っても、いかに時が経っても、今生まれたばかりのように新鮮です。少しもその鮮明さ、みずみずしさは衰えない。こういうもの。
この印象、感銘、これは『後頭葉』で受けて持ってるんです。記憶は側頭葉ですが、印象、感銘は後頭葉で受け持ってる。この印象、感銘の内容、内容は『頭頂葉』で蓄えられてる。『情緒』として蓄えられてる。情緒に姿を与えたものが印象であり、色どりを与えたものが感銘だと思えばよろしい。その元のもの、情緒として頭頂葉へ蓄えられると思う。
また前頭葉から、本なんかを読んだ時、よく咀嚼玩味して身につけるものだけつけますと、これもやはり情緒として頭頂葉に蓄えられると思う。ともかくまあ、前頭葉は別として、感銘、印象というふうなものを受けると、本当に受けると、それが頭頂葉に蓄えられる。で、この情緒、この『情緒の全体が情の内容』、『即ち自分』ですね。
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