「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -
【14】 小我を離れる
(女性)小さい問題になってもよいでしょうか。先程から私とか自我を無くするというお話が出ておりますが、その範囲はどの辺までと限るんでしょうか。例えば自分の家庭、子供を含めた家庭という場合と、自我を無くすということは、自分の家庭も含めてなのでしょうか。
(岡)しかし自分の家庭を大事にするというふうなことはなすってよいのです。それは人本然の情ですけれど、それだけになっちまっちゃ困るんですね。それだけというのはいけない。
(女性)個人的な話になって恐縮ですけれども、こういうことがありました。私の母が病気になりました。ところが私には小さな子供がいて手離せませんでした。そういう時に、どちらを取るべきかというふうな時に、非常に難しい。それで結局時間切れになってしまった訳なんですけども・・・
(岡)はあ、お母さん、どうかなすった。
(女性)はい。
(岡)はあ。本当に手離せなかったんですか、小さい人を。多少悔いが残りますね、それじゃあ。
(女性)いや、あの・・・
(岡)いや、悔いが残りゃ残していいんです。子供を大事だと思うのも人本然の心だし、親を大事だと思うのも人本然の心ですが、どちらが強いかって云うと子供を大事だと思うほうが強い。それを全部取り去ると人の世というものは無くなる。しかし全面的に認めたのでは人の世の良さというものが無くなる。ほどほどに認めるんですな。大抵はやり損なっては後悔するんですが、それが人というものであって、般若心経は「無無明、亦()無無明尽()」と云ってるでしょう。無明というものは無く、また無明の尽くるという時もない。無明って云ったら心の闇ですが、無明は尽きる時がないんです。からだを持ってる限り無明は必ずつきまとう訳で、無明を無明に任せておいて、一段高いところから「ああ、また無明をやってるな」と思ってればよいんです。
(女性)その前にもまだこんなことがあったんですが、兄が病気になりましてね、その時は子供はまだ小さくて母乳を飲ませていた頃で、あまり見舞いにも行けませんでした。後から考えてみましたら、乳吞児を預けて働きに行く人もあるくらいですから、死にかけている兄を見舞いに行けばよかったと・・・
(岡)あの、乳呑児を預けて働きに行ってる人は、その人の方が間違ってるんです!
あんなことしたら悪い。(笑)
(女性)だから、そういう時の判断を、ぎりぎりの時の判断を、何によるべきなんでしょうか。
(岡)第二の心によるべきなんですね。
(女性)その第二の心というのは何によって養われるのでしょうか。
(岡)私を離れることです。私を離れてみたり、また私の中へ浸ってみたり、いろいろになさって、上から見降してみたり、またその無明の流れの中へ漬ってみたり、またそれを上から見直してみたり、そういうふうな生涯を送ると、大分わかって来る。そういうふうな生涯を重ねると段々余計わかってくるんです。段々わかっていく。無明の中へ浸りきりはいけません。しかしこれは無明だと云ってみな退けてしまってもいけません。「無無明、亦無無明尽」
しかし、実際問題として、矢張りなるだけ工面して、そういう時の兄さんをお訪ねになり、またなるだけ工面して親をお訪ねになると、そんなふうに努めらるべきものです。みすみす赤ちゃんかお子達、放っとけん時はそりゃそちらをなさらなきゃいけませんけどね。なるだけそこを工夫して、親をお訪ねになるというふうなのが良いんです。
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