「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【18】 第二の心、天真爛漫であれ
(男性)根本において植物も動物も人間も第二の心でつながっているということですが、人間に限りましてですね、根本が第二の心で結ばれているのなら、結ばれていながらどうして喜んだり悲しんだり、あるいは相手に快とか悲しさとかいうものを与えたり、ということが有り得るのでしょうか。
(岡)第一の心という人に与えられた黒板に、そういうものを表すことが出来るんですね。第一の心という黒板に、心の内容を表現する能力が人は与えられてるんです。その使い方が間違ってる。
(男性)現実の人間関係として、快とか不快とかを与える人と、それを受ける人がありますね。そういうものは何によって作用されるのでしょうか。
(岡)物質的状況が変わることでしょう。そうすると心にその影が映る。そして心は色どりを変える。これが情緒です。それでわかる。これは妙観察智の働きです。
(男性)どちらの心の中にもそういう働きがあるということですか。
(岡)どちらの心って、二つの心は一つとも云えず、二つとも云えない、不一不二。こういう関係にあるから、妙観察智という智力が働いて、他の心のこともある程度までわかるんです。
(男性)と云うことは、お互いにわかり合うということですか。
(岡)必ずしもそうはいきませんね。妙観察智が一方の人にあまり働かなかったら、その人には相手の心はあまりわからない。わかってるんだけど知らないんですね!全然わかってないことはないでしょうけど、わかってるんだろうけど、意識を通さないから知らない。意識を通してよく現われるということは、前頭葉を黒板として表現の場として充分使い慣れてないと、その訓練が出来てないと意識を通しては現われないでしょう。東洋人、それが足りなかった。
(男性)人によって、心の掴みやすい人と心の掴みにくい人とがありますが、この差はどういうところから来ているのでしょうか。
(岡)あの人は心の掴みにくい人だと云われてる人は、普通第一の心をよく使う人です。天真爛漫だったらよくわかる。これは第二の心です。第一の心を非常に働かせる人の心はなかなか掴めない。天真爛漫が良いんです。だから本居宣長は、
しきしまの大和ごころを人問わば 朝日に匂ふ山ざくら花
と教えたんです。天真爛漫の心の内容は、善であるとか悪であるとかいう言葉では云い表しにくいでしょう。西洋人の特にいう善とか悪とかは非常に浅いんです。仏教の禅では善行というふうに教えないで「行雲流水」と、そんなふうに教えるでしょう。
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